“ゴッドファーザー”は元国防大臣?③

アメリカとメキシコ コラム
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シエンフエゴス将軍逮捕が麻薬戦争に与えた影響

NPO法人海外安全・危機管理の会
特別研究員 棚橋 悟

前号では、メキシコにおいていかに軍という組織が“侵すことのできない”聖域になっているか、またアメリカで逮捕されたシエンフエゴス将軍をメキシコ政府が無罪放免にしたことで、米墨対立が発生した経緯についてみていきました。

シリーズ最終回となる今回は、メキシコにおける「シエンフエゴス将軍逮捕事件」の調査やその後さらに悪化する米墨関係が、「麻薬戦争」に与えた影響についてみていきたいと思います。

アメリカの捜査結果を否定したメキシコ政府

メキシコに移送された後、シエンフエゴス将軍はどうなったのでしょうか。メキシコでシエンフエゴス将軍逮捕事件の捜査を引き継いだのは、FGR(メキシコ共和国検事:El Fiscalia General de la Republica en Mexico)でした。FGRはアメリカから米麻薬取締局(DEA)の700ページの報告書を含む捜査結果を受領し、再度の捜査を実施しました。

その結果、アメリカでの逮捕が不当だと結論づけられ、シエンフエゴス将軍の不起訴が決定。最終的にシエンフエゴス将軍は無罪放免になりました。アメリカは数年間かけて捜査を積み重ねて逮捕に踏み切ったのですが、それとは対照的にFGRは、シエンフエゴス将軍がメキシコに帰国してからわずか2か月後にこの決定を下しています。

FGRは、「シエンフエゴス将軍が麻薬カルテルとつながりがあったことや支援をした事実はない」と結論づけました。アメリカが証拠として提出したシエンフエゴス将軍と麻薬カルテルとの幹部のチャット・アプリのやり取りなどに対しても“捏造されたものだ”と断定しました。

FGRの捜査結果については、シエンフエゴス将軍の不起訴が確定した後に資料が公開されましたが、多くの部分が黒塗りにされ、具体的にどのような捜査に基づいて不起訴となったかは明らかにされていません。しかし、不起訴が決定する前の2021年1月9日にはシエンフエゴス将軍が検察に召喚され、検察と本人の間でやり取りがなされたことが記録されています。

シエンフエゴス将軍は自身の麻薬密輸等の関与について威風堂々かつ明瞭に否定した様子などが記されており、非常に興味深い記述もみられます。

ロペス・オブラドール大統領はFGRの捜査結果を賞賛しました。また、「DEA等のアメリカによる捜査の信頼性が高くメキシコよりも優れていると考えるのは時代遅れであり、現実に対応していないものだ」と述べました。FGRはDEAの捜査結果を否定し、米国はシエンフエゴス将軍を逮捕する根拠を欠いていたがゆえに、最終的には釈放する結果になったのであって、DEAの捜査結果は間違っているとしたのです。

一方で、条件を一切付けずにシエンフエゴス将軍を釈放し、メキシコに捜査を引き継いだアメリカは、「メキシコ共和国検察が同将軍を不起訴とし無罪放免にしたことは非常に残念である」と表明。また、「シエンフエゴス将軍のメキシコでの不起訴は、メキシコ軍が麻薬カルテルとのつながりを持っていることを追求する絶好の機会を逸してしまう結果になった」とアメリカの識者はコメントしています。

この後、さらに両国間の衝突は加速します。シエンフエゴス将軍がメキシコに移送された後に、メキシコ外務省とFGRによりDEAの捜査報告書がアメリカの承諾を得ずに一般公開されてしまったのです。

この報告書は前述の通り、アメリカでシエンフエゴス将軍の逮捕の理由となった捜査の結果であり、その中にはチャット・アプリの1,000近くのメッセージや写真などが含まれていました。この中にはシエンフエゴス将軍が賄賂を受け取り、H2カルテルを守っている様子や軍の機密情報を漏洩している内容なども含まれていましたが、メキシコのFGRは“全て捏造されたもの”だと断定してアメリカを非難しました。

これに対してアメリカは、「事前の承諾なしにDEAの捜査結果を一般公開することは、アメリカとメキシコ間の条約違反である」と強く非難しました。また、DEAの捜査結果は決して捏造されたものでなく、アメリカの法律ならびにメキシコの主権を尊重して収集された結果であるとし、メキシコの対応に強い不満を表明しました。

結局、その後アメリカとメキシコが互いの意見の相違について理解を示すことはなく、自国の意見の主張を続け、対立したまま本件が終わる結果となりました。

揺らぐ「麻薬戦争」をめぐる米墨協力

この事件では、シエンフエゴス将軍自身はメキシコで無罪放免となり、自由の身となっています。しかし、それ以上に大きな影響として今後のメキシコ・アメリカの関係に不安を残す結果となりました。

麻薬戦争に適切に対処していくには、メキシコとアメリカは切っても切れない関係であることは明白です。それは両国政府も認めるところです。そのために、今までアメリカのDEAとメキシコの治安機関(警察・軍)は深い協力関係を築いてきました。多くの人々がシエンフエゴス将軍の件で、両国間の協力関係が揺らぐことを懸念しています。

アメリカは2020年の大統領選挙の結果、トランプ大統領からバイデン大統領に交代しました。現時点でバイデン大統領の中南米における外交の方針を見ていく限り、トランプ政権とは違い、中南米の国々と協調していくことが示されており、メキシコも例外ではありません。

しかしだからといって、シエンフエゴス将軍事件の影響がなくなるわけではありません。むしろ、新たな課題としてバイデン大統領にのしかかることが予想されます。前述した通り、国境を接しているメキシコの情勢悪化は、アメリカにとって安全保障上最も危惧すべき脅威であることは間違いありません。バイデン大統領がいかにしてメキシコとの関係を築いていくかが今後注目されます。

また、メキシコにおいては、麻薬カルテルの新興勢力であるCJNG(ハリスコ新世代カルテル)の急拡大により既存の麻薬カルテルとの抗争が激化。治安が急激に悪化しています。それにより、数年前まで治安が安定していると言われていたメキシコシティでさえ治安が悪化している状況なのです。

また、その他にもアメリカに向かう不法移民の問題、ヘロインよりも有毒とされる新興合成麻薬フェンタニルの氾濫など新たな問題が浮上してきています。今後、2024年まで任期が残っているロペス・オブラドール大統領が、こうした数多くの課題にどのように対処していくのか。また、それが北米・中米地域の安定にどのような影響を与えていくのかついて、引き続き注目していきたいと思います。

メキシコから学ぶ新興国・途上国の“スタンダード”

本コラムでは、シエンフエゴス将軍逮捕をめぐる事件を軸として、メキシコの麻薬戦争の一端や米墨関係についてみてきました。メキシコでは、日本人からは考えられないような事態が起きていると思われたかもしれませんが、実は多くの新興国や途上国では、これと似たような事件が日常的に起こっています。筆者は、メキシコ情勢の分析を通して、世界の大多数の国々で当たり前のように起きている、“スタンダード”な感覚を学ぶことができるのではないか、とさえ感じています。

本コラムをお読みの皆さんが少しでもメキシコの情勢に興味を持ち、新興国や途上国で起きている“スタンダードな感覚”について考えていただければ、筆者としてこれに勝る喜びはありません。これからも折に触れて、メキシコをはじめとした中南米の情勢を皆さんにご紹介させていただければ幸いです。本コラムを最後までお読みいただき、ありがとうございました。

<おわり>

タイトル画像:Shutterstock