“ゴッドファーザー”は元国防大臣?②

メキシコ コラム
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米墨対立を引き起こしたシエンフエゴス将軍の逮捕

NPO法人海外安全・危機管理の会
特別研究員 棚橋 悟

前号では、元メキシコ国防大臣が任期中に麻薬カルテルとつながり、麻薬密輸や資金洗浄に関与した容疑でアメリカで逮捕された事件について、その概要やメキシコにおける麻薬戦争の歴史的な背景について説明しました。

今回は、この事件を理解するうえで大事なメキシコにおける警察や軍の位置づけや政治とのかかわりについて考えていきたいと思います。

麻薬カルテルと結託する警察

あまり知られていませんが、日本とメキシコは400年前から関係があり、2018年には外交樹立130年を迎えています。地理的に遠いこともあって、メキシコは、日本人の日常生活ではあまり馴染みがない国かもしれません。しかし、歴史的には日本が明治時代に開国してから初めて平等条約を結んだ国であり、知られざる親日国でもあります。

昨今では多数の日系企業が進出するなど経済的な結びつきも強くなっています。これからも日本とメキシコの関係は深まっていき、日本にとって重要な友好国になっていくのではないかと筆者は感じています。

では、メキシコ人にとって本件のような公職に就く公務員が麻薬カルテル絡みの汚職によって、逮捕されることは珍しいことなのでしょうか。答えは残念ながら「ノー」です。メキシコ人全体の公職に就く公務員への見方は日本人のそれとは大きく違います。

まず、メキシコでは公務員の一部が麻薬カルテル関連の汚職に手を染めることは日常茶飯事です。政治家、中央政府・地方政府の役人、警察など幅広い職域の公務員の一部が麻薬カルテルと密接な協力関係を築き、犯罪に加担しています。麻薬カルテルのボスには元々公務員であった人がいるほどです。公務員の中でも特に警察が麻薬カルテルと緊密なつながりを持っている場合も多くなっています。

例を挙げてみましょう。メキシコの麻薬組織の始祖であり、通称<ボスの中のボス>といわれたグアダラハラ・カルテルのフェリックス・ガジャルド(Miguel Angel Felix Gallardo)は警察出身です。フェリックス・ガジャルドは現在のメキシコにおける麻薬戦争の状況の基礎を作り出した人物です。

また、現状ではメキシコで最大カルテルとなりつつあるハリスコ新世代カルテル(Cartel Jalisco Nueva Generacion 通称:CJNG)のボスであるネメシオ・オセゲラ・セルバンテス(Nemesio Oseguera Cervantes)も同じく警察出身です。このカルテルは2010年代後半にかけて急速に発展し、現在のメキシコの治安が悪化する大きな要因となっています。

このように新旧を代表するカルテルのボスは警察出身ということからも分かる通り、警察と麻薬カルテルのつながりは実際に存在するのです。

また、メキシコで度々発生する麻薬カルテル絡みの大量虐殺にも警察が絡んでいることが多くあります。最近では、2021年1月にメキシコのアメリカ沿いの国境で移民19人が射殺された後に、車ごと燃やされて死体が遺棄されたという事件が発生しています。この事件は麻薬カルテルの殺し屋が直接の犯行に及んだとされていますが、犯行に関与したとして現地の複数名の警察官も同時に逮捕されました。

警察官のうち何名かはアメリカで対麻薬カルテルの特殊訓練を受けていたと言われています。アメリカで対麻薬カルテルの特殊訓練を受けた警察官が麻薬カルテルの殺し屋と協力し、移民19人を殺害したというのは何かの冗談かと感じるかもしれません。しかし、この事件ですらメキシコでは氷山の一角であり、警察が麻薬カルテルと協力した事件は実際に数多く発生しています。

公務員と麻薬カルテルの密接な関係の極めつけは、元公安庁長官のガルシア・ルナ(本名:Genaro Garcia Luna)が2019年にアメリカで逮捕されたことでしょう。

麻薬カルテルの撲滅を宣言し、戦争を始めたのはカルデロン政権であると前述しましたが、逮捕されたガルシア・ルナはそのカルデロン政権の公安庁長官でした。逮捕された理由は当時の最大勢力を誇っていたシナロア・カルテル(このカルテルのボスは前述した<エル・チャポ>です)から数百万ドルの賄賂を受け取り、カルテルの活動を支援していた疑いがあるとのことでした。

彼は現在もアメリカで裁判中となっています。“麻薬戦争において陣頭指揮を執るはずの公安庁長官が麻薬カルテルと協力していた”という事実からも、警察をはじめとした公務員の一部がいかに麻薬カルテルとつながりが深いのかという証左になるのではないかと思います。

警察は信用しないが軍への信頼は厚いメキシコ人

今回のシエンフエゴス将軍が逮捕された際にも、報道ではガルシア・ルナ長官の名前が多く登場し、紙面を賑わせていました。しかし、シエンフエゴス将軍の件とガルシア・ルナ長官の件では、逮捕後のメキシコ政府の対応に決定的な差異があります。

これは、メキシコ人の警察と軍に対する認識が大きく異なっていることを反映した結果ではないかと思います。日本人からすると、麻薬戦争で麻薬カルテルに対峙する警察と軍の両方の機関に大きな違いがあるとは思えません。しかし、メキシコ人にとっては大きく異なったものという認識があるようです。

メキシコ人の警察と軍の認識の違いについては、筆者の体験を例にして説明したいと思います。

筆者がメキシコ滞在時、メキシコ人の友人は一様に警察官について共通の認識を持っていました。それは、「警察官が信用できない」ということです。なかには、警察官には注意するようにと筆者に警告してきた友達もいます。日本の真面目な警察官のイメージしか思い浮かべなかった筆者は、友人に対してなぜそのようなことを言うのかを聞きました。

すると友人たちは、これまた一様に「警察官は汚職に関与し、権力濫用しているから」と言っていました。もちろん、全ての警察官が汚職に関与し、権力濫用しているようなことはないと思います。しかし、警察官の一部が麻薬カルテルと協力し、汚職に手を染めていることは紛れもない事実です。このようなことからもメキシコ一般市民にとって警察は信用できない存在になっていることが分かります。

一方で、メキシコ国民の軍への信頼は厚いです。筆者はメキシコ人の友人に誘われて、メキシコ独立記念日の式典を見に行ったことがあります。式典の目玉イベントは軍事パレードでした。メキシコの各地域に配属されている陸軍、海軍、空軍の軍人が国立宮殿を中心とするセントロ地区という場所を行進していました(日本で例えるならば、皇居から銀座までの道です)。

軍事パレードには非常に多くの観衆が詰めかけており、行進する軍人達に声援を送っていました。今思えば、それはメキシコ麻薬戦争において自分たちを守るために前線で戦っている軍への一般市民の感謝の表れだったように思います。ちなみに、式典ではペニャ・ニエト大統領の隣にシエンフエゴス将軍も参加していました。

独立記念日の軍事パレードの様子(筆者撮影)

メキシコ麻薬戦争において、国民のために前線で戦っているのは警察ではなく軍です。また、戦場にて多くの軍人が亡くなり、多大な犠牲を払ってきました。警察をはじめとする多くの公務員が麻薬カルテルと繋がっているような状況で、軍はメキシコ国民にとって唯一信頼できる機関であり、なおかつ最後の砦とも言えます。

そんな軍のトップであったシエンフエゴス将軍が逮捕されることによるメキシコ人の驚きや失望は計り知れません。すなわち、軍でさえ麻薬カルテルとのつながりがあるとすれば、多大な犠牲を払ってきた麻薬戦争に何の意味があるのかという国民の深い絶望につながります。

そのため、メキシコ政府にとっても軍は犯してはいけない聖域であり、アメリカによるシエンフエゴス将軍の逮捕は看過できるものではなかったのでしょう。

では、そんなメキシコ政府は“シエンフエゴス将軍の逮捕”にどのような対応をしていたのかを見ていきましょう。

将軍を無罪放免、アメリカを非難したメキシコ政府

前述のガルシア・ルナ長官の逮捕の際には、同長官がカルデロン政権の麻薬戦争における重要人物であったため、ロペス・オベラドール大統領はカルデロン政権のことを「麻薬カルテル政権」と揶揄し、非難しました。しかし、シエンフエゴス将軍の逮捕に対しては、メキシコ政府はアメリカに対して訴追を取り下げるために多くの外交的な働きかけをしていたことが後に判明しています。

シエンフエゴス将軍が逮捕された直後に、オブラドール大統領は軍と麻薬カルテルのつながりを即座に否定し、軍がメキシコ国家に忠誠を誓っていることを強調しました。また、シエンフエゴス将軍の逮捕に関しても、最初の数日間こそ大統領は自身の態度を明確にしませんでしたが、時間が経過するにつれて、逮捕したアメリカ政府とDEA(麻薬取締局:Drug Enforcement Administration)に怒りの矛先を向けることになりました。

DEAに対しては、メキシコ国内で活動しているのにも関わらずメキシコ政府の容認を得ずに捜査していたことに対して「国家主権の侵害である」と非難。そのうえで大統領は、DEAの捜査結果に基づいてシエンフエゴス将軍が逮捕されたことは不当だと結論づけました。

また、メキシコ外務省もシエンフエゴス将軍が逮捕される前にメキシコ政府に情報が共有されなかったことに対して、在メキシコ米国大使や米国司法長官に苦言を呈しました。メキシコのマルセロ・エブラルド外務大臣は「仮にシエンフエゴス将軍が罪を犯したとして、なぜ他国が関与し、裁判を行うのか?」などとアメリカの行動を非難しています。

このように、メキシコ政府はアメリカを批判し、シエンフエゴス将軍を擁護する立場を鮮明にしていきました。更に、それに留まらずにメキシコ政府は、アメリカに対して外交的な圧力も加えていきました。シエンフエゴス将軍が逮捕されてから約2週間後に、メキシコ政府は国内で活動しているDEAのエージェントに行動規制をかけることを示唆したのです。これは、アメリカが長年にわたって心血を注いできた麻薬カルテル撲滅の為のオペレーションが実施困難になることを意味します。そして、それはアメリカの安全保障に重大な悪影響を及ぼすことになり、アメリカとして看過することはできません。

このメキシコの外交的な圧力の結果、逮捕されてから33日目にアメリカはシエンフエゴス将軍の訴追を取り下げることを決定しました。訴追の取り下げは「外交上における繊細かつ重要な事項に配慮して」との理由により決定されたと発表されました。アメリカがシエンフエゴス将軍の訴追よりも、DEAがメキシコ国内で活動制限されることの痛手のほうが莫大であるとの判断がなされた結果ではないかと報道されています。

いずれにせよ、今までにアメリカで逮捕された外国人が他国政府の働きかけによって訴追を取り下げるという例はなく、前代未聞の出来事となりました。

今回のシエンフエゴス将軍の件で、DEAは2013年から2019年にかけて捜査を実施し、同将軍逮捕の元となった報告書は700ページにわたっています。その中には本人がチャット・アプリで麻薬密輸に言及していたなどの具体的な証拠も含まれています。

シエンフエゴス将軍の逮捕は、綿密な準備の上で実施されたと思われます。2018年までメキシコで国防大臣を務めた人物を逮捕するのですから、確固たる証拠に基づいていなければおかしいでしょう。そんな周到な準備の上で行われた逮捕に反しての訴追取り下げは、アメリカ国内でも多くの批判が上がりました。多くの人々がアメリカ政府は具体的な事実に目をつぶり、米国の国家安全保障上の利益を侵害したと非難しました。

その一方でメキシコ政府のアメリカに対する強硬な姿勢は、シエンフエゴス将軍が釈放・移送された後も続いています。特に両国間の関係を悪化させることになった決定的な出来事が起こります。それは、12月中旬に決定したメキシコ国内の「安全保障に関する法律の改正」です。この法律の改正は、メキシコ国内で活動する外国のエージェントの行動を規制するというもの。対象はあくまで外国のエージェントであると言及されました。

しかし、実質的にはメキシコ国内で活動するDEA等のアメリカのエージェントに向けて施行されたものであることは明らかです。また、この安全保障に関する法律の改正は、わずか11日間という異常なスピードで決定しました。メキシコ政府は、法律の改正は国内の安全保障上の利益を確保するためであり、特定の国に対して向けたものではないとしていますが、多くの人々がシエンフエゴス将軍の逮捕に対するアメリカへの報復の一環とみなしています。

麻薬戦争において、DEAはメキシコと共同で数多くのオペレーションを実施し、成功を収めてきました。一番大きな例としては、麻薬王<エル・チャポ>の逮捕であり、彼は今でもアメリカの刑務所に収監されています。

DEAがメキシコ国内で活動する一番の理由は、アメリカにおいて地政学上の大きなリスクである隣国のメキシコの麻薬戦争の影響を自国に波及させないことです。しかし、今回の安全保障に関する法律の改正でDEAのメキシコ国内での活動が制限されることになります。多くの識者はこの法律の改正がメキシコ国内の麻薬カルテルを勢いづけることになり、結果的にアメリカの安全保障に重大な悪影響を与えるのではないかと危惧しています。

いずれにせよ、シエンフエゴス将軍の逮捕は、アメリカとメキシコが大きな対立を引き起こす引き金になったことは確かです。

<つづく>

タイトル画像:Shutterstock